2016年4月13日水曜日

神津島ボヤージング  4万年前の先人たちに出会う旅

神津島ボヤージング
4万年前の先人たちに出会う旅 

今、僕が生活と漕ぎの拠点にしている南伊豆の弓ヶ浜と青野川その周辺は、遥か太古の昔、カヌーの聖地だったと信じている場所だ。


今は青野川という名前がついた川になっているが、かつては南伊豆の山々につながる奥深い入江だった。 僕は毎日、その入江を下ったところにある外洋に出る直前に大きく広がる”弓ケ浜”とよばれる白い砂浜からカヌーを出す。そして天地自然に祈りを捧げ、日課のようにこの南伊豆の外洋の海を漕いでいる。

そうする事が僕ができる唯一のこの場所に太古から眠る海洋民族Kupuna(先人とか祖先とか言う意味のハワイ語)に語りかけることであり、そのKupuna達の魂を癒すことにつながるんだと、、信じている。 

そして、それが自分に課せられた使命だということ。そして自分が生きてる間にやらければいけないことなんだということ。 そんな事に今から7年ほど前に気付いた。

その後、その目的を果たすべくカヌークラブを設立し、ハワイや日本で島渡りをくりかえしてきたものの、毎日、相模湾の波風静かな中を漕ぎながら、潮と風の流れに任せているうちに、もっと外洋を漕がなくてはいけない。このままでは何かが足りない。などと思い始めていた。



すると不思議な事に、まわりの環境や人々の自然な流れがあり、昨年の夏に葉山からここ弓ケ浜”へ引っ越して来る事となった。そこには自分の意志や計画があったわけではない。まさに”なるようになる”に身を任せたのだ。
まさしく”外洋の海を漕ぐためだけに” 引っ越してきたわけだ。 引っ越して来て、すぐに色々な事を知った。というか、僕の想いを具体的に証明するようなことが起こったのだ。 

弓ヶ浜を外洋の風とウネリから守るように海に向かって突き出た、左手側(東)にあるタライ岬と、右手側(西)にある弁財天岬と弥陀の窟(みだのいわや)という場所がある。そのタライ岬と弥陀岬には、古代の祭祀場の跡が点在し、それを昔から研究しているという学者の方から突然電話があり会うことになった。(その方があとからわかったのだが偶然にも僕の家の向かいの方であったというのも偶然とはいえないだろう)
他には、弥陀岬(山)にある、古代の海洋民族の遺跡だと信じている地元の叔父さんや静岡大学の研究者という人達との発掘調査に同行することになった。

そして、極めつけは、7月の朝日新聞の日曜版で、”3万8,000年前に、すでに南伊豆から神津島まで、人がカヌーで漂流じゃなく、目的を持って海を渡り、しかも往復していたということが日本各地の遺跡によって証明された”という特集記事だった。



航海した人々の目的とは、神津島の黒曜石の採集だったそうだ。 ”神津島”の名は、僕がアウトリガーカヌーで島渡りを始めた8年前から、黒曜石と神津島というセットになって、色んな人達からちょくちょく耳にしていた。

人によっては『duke、島に漕いで渡るんだ。凄いね、黒曜石を探して海を渡った縄文人みたいだね』とか、『duke,せっかく漕いで渡るんだったら、縄文人みたいに神津島まで行って、黒曜石を取って帰っておいでよ!』などと言っていた。そんなわけで僕は誠にいい加減ではあるが、黒曜石、イコール、縄文人。という感覚でこれらをセットで信じていた。

僕が先に述べた海のKupuna(先人たち)についての確証たる歴史的時間の感覚はあまりなく、縄文時代についても僕のイメージの中では、それは数千年前のもしくは、古くても一万年前の人々の事ではないかと想像していた。それがこの朝日新聞の記事では、3万8,000年前にさかのぼるというのだ。なんとそれは一般的にいわれている縄文時代よりもはるかに古い、”旧石器時代”と研究者の人々が呼ぶ時代なのだ。 

地球上の場所によっては、まだネアンデルタール人が存在していてもおかしくないほどのはるかな昔、そんな太古の人類がすでに伊豆半島、この辺りの浜を経由して神津島まで漕いで往復していとは驚愕である。凄い!というのもだが、日頃から毎日海を漕いでいる僕からすると『畏敬の念』、『叡智の人』という言葉がぴったりとあてはまる。僕らの想像を超える能力と勇気をもった、今の人間とは全く違う、クジラやイルカ達に近い人間風の哺乳類、ネイティヴジャパニーズだったんだ。 

そのような能力を持った海の民が、この南伊豆周辺の海を、今の僕らと同じように漕いでいたと想像するだけで、「彼らがたどったであろう海の道を漕いでみたい」という思いが一層強烈になったのだ。

それからというもの僕は太古の人達も漕いだであろうここ弓ケ浜から神津島までを漕いで渡ることをいつ実行できるか毎日のように考えていた。弓ヶ浜に立ち、いつも真南にうっすらと遠くに見える島、利島、新島、式根島の西の奥に浮かんで見える神津島、を毎日眺めていた。そんな日々が過ぎ  ”もしかしてこれは行けるかも…”そんなタイミングが急にやってきた。

 初春、日に日に西風の強さが弱まってきそうなこの時期、ぽっかりと1日と半日、南伊豆の南方海上付近の風が弱くなりそうな気配を感じたのだ。 ウネリもさほどなさそうな気配。毎日のように、天気予報は色んなサイトでチェックしてるし、どんな気圧配置の時に天気予報が特に風の予報が外れるかというのもここに来てだいぶ判ってきた。

そして最終的に今回のボヤージングを決心して、妻に伝えたのは前日の夜だった。『明日、風が落ちそうだから、新島か、式根島か、もしかして潮がよければ、神津島まで漕ぐかも…』と軽く伝えた。 明日の朝起きて、海を見て、空を見て、島が見えて、漕いで渡りたい気分になったら、明日は漕ごう。と心に決め、いつもより少し早めにベットに入った。 

次の朝、起きた途端に、いい天気、清々しい空気だと感じた。
海を見る前から今日は渡れるかも、体調も善く、気分がウキウキしていた。



愛犬のクウイポと波チェック、風チェック。波と風は、ここから目で見ることはできない遠くの海の状況を僕たちに教えてくれる。意外にタライ岬を回り込んでくる東よりの北風を感じるけど、青い水平線の上に神津島がクッキリと黒々と見える。視界も良好。今日はいいボヤージング日和になりそうだ。

その日、家にはオレンジも無かったしバナナも無かったので、食べ物は何も持たないで、舟出することにした。水分補給は、近くの自動販売機で500mlの水とコーラとアクエリアスを1本づつ買って、着替えを入れた防水バックと一緒にカヌーに持ち込んだ。 

僕は普段から朝ご飯は食べない。一日2食を心がけてる。その方が日中は調子がいい。長距離を漕ぐときは、朝も昼も何も食べない。空腹ぐらいの方が漕ぐことや海の動きに、体中の感覚や神経を総動員させて集中できるのだ。空腹になればなるほど、飽食の時代に生まれた僕の身体のどこかにに眠っている野性の感覚を目覚めさせ呼び戻すことが出来るのだろう。そう、僕らの祖先が狩猟生活をしていた長い時代、食べ物や獲物を求めて旅していたころの感覚に目覚めることが、海を渡る時にもプラスになるように感じるのだ。
大海原を漕ぐ行為は、まさに太古の自分の魂にもどることなのだ。 



神津島と南伊豆の海峡は、およそ片道60キロある。3月の日照時間では1日での往復には無理があるので、今回は島で一泊するつもりで準備をした。 

今回のボヤージングに使用したカヌーの名前はMoana Va'a。前回のVoyagingと同じV-1(タヒチアンスタイルのラダー無しカヌー)。しかしこのV-1は前回のと違いハワイアンメイド、Kamanu Composit というメーカーが作ったV-1だ。 Kamanu Composit は、Pueo という世界一人気があるOC-1を作っていて、信頼と実績があるハワイとオーストラリアで、パドラー達が一つ一つハンドメイドでカヌーを製造している。

 島で一泊して次の日に帰ってくる予定だったので、のんびり8時半に弓ヶ浜を舟出した。 気持ちの中では神津島を目指したいと思って舟出したが、潮流がきつい場合は、手前にある式根島か新島に上陸してもいいな、と思いながら、まずは神津島の方向に、神子元島の西側の海域を漕ぎ進んだ。




前回の利島へのボヤージングの時にも話したが、この神子元島の周辺は、深水が浅く、浅瀬や根が点在するにで、常に潮のぶつかり合いがあり、海が激しく動いてる海域だ。 北東風から弓ヶ浜を守るように外洋に突き出たタライ岬を超えた途端に、嫌な北東からの風が強まった。 「あれ、こんなに強い予報だったけ」と少し焦りながら、引き返そうとも思ったが、せっかく舟出したことだし、神子元島を回って帰って来ようか、と頑張ってアマに風を受けながら漕ぎ続けた。

ウネリや潮流はさほどではなかった。神子元島に近づくにつれて、もっと北東の風がつよまれば今日は断念して引き返そうと考えながら漕いでいたが、それほど北東風は強まることもなく、 海面の動きも荒れる感じじゃなくなってきたので、そのまま漕ぎ続けることにした。

 正面に神津島を見ながらも、北東風で少し西に流されるのを気にしながら、進行方向の左(東)より、新島よりに進路を傾けながら漕ぎ進んだ。1時間、2時間と漕ぎ進むうちに、北東の風は落ちて、その代わりに外洋のウネリが大きく動き出した。いたるところで、潮流のぶつかり合いが始まった。Va'a が滑ったり、進まなかったりの繰り返しだった。



 今回は息子にプレゼントされたGPS付の時計をVa'a Moanaに取り付けていたので、割と時間がたつのが早く感じた。ほどなく標高が低い平らな式根島が観えてきたころにはもう30キロは漕いでいた。 最初の2時間は休みなく漕ぎ、それからは約1時間毎に1分休みを入れて漕ぐというペースで漕ごうと試みたけど、潮目に入った時は、それを抜けるまで休憩を入れなかったので、結局はまちまちで休憩を入れることになった。休憩といっても給水するだけで、後半はコーラを飲むのが楽しみになった。 ハワイや夏のボヤージングと違い、まだ暑くないこの春先のボヤージングは、長距離を一気に漕ぐには、喉も乾かないし、疲労も少なく、もしかして海のコンディションを除いてはボヤージングに最適なシーズンかもしれないな~とか考えながら漕ぎ続けた。

漕ぎながら、利島を真横(東)に見て。いつも見ている海図の島々の位置を思い出し、自分とVa'aを上空からみたら、どの辺りにいるのか、どんな感じで地球の海の上を進んでるのかをイメージする。イメージし続けながら、刻一刻と変化する新島、式根島、神津島の島の見え方を元に、頭の中にある海図上の自分とVa'aを動かしていく。

興味深いのは、利島の隣にある鵜渡根島の見え方(形)が、どんどん変化することだった。新島の街並みや山肌が西に傾いた太陽に照らされて、ハッキリと見えてくるのに、なかなか神津島は島の形も依然変わらずにただ黒々と見えるだけだった。

僕は知らず知らずのうちに、新島、式根島に近づきながら漕いでいた。 このままもっと近付き、新島か式根島に上陸しようかという誘惑になんどもかられた。風も西から東、新島方面に向かって吹き始めてた。近い島に、心が引き寄せられるのは、海を渡る人間としては自然なことなんだなぁと思った。しかし行き先目標は神津島なのだ。黒曜石を求めて漕いだ先人達のことを思い浮かべ、彼らの勇気と叡智に敬意を表しながら、時空を超え、偉大な尊敬する彼らと一緒に神津島を目指しMoana Va'aを漕ぎ続けた。 



また、急に海面が複雑に荒れ始めた。おそらく『ひょうたん瀬』のあたりだったのだろう。ひょうたん瀬というのは式根島の東で、神津島の手前(北)に、水深100メトルに満たない浅瀬が東西に細長く広がっている場所だ。 すでに漕ぎ始めて5時間経過。疲労した身体にとって、この潮目で起こる三角波の海域は嫌なものであった。

 荒れた海では、まずはビビらないこと、焦らないこと、自信を持って、絶対に海と戦わないで、波や潮に逆らわずに、波の傾斜や潮の流れを利用して、真っ直ぐ進まず、パドルでバランスをとりながら海の動きやリズムに合わせて漕ぐことがポイントだ。

 今回のVa'a Moana はアマもハルも丈夫につくられていて、白波がきてもつねにアマが海面に浮き上がるので、不安も恐怖も感じずに荒波を漕ぎ続けることが出来た。この辺りから、水温がかなり上昇し(18℃以上)、海の色が濃い蒼色に変わっていた。黒潮がかなり北上しているようだった。 やはり、少し式根島方面(東側)に蛇行してたらしく、思ったよりも神津島の北岸(赤崎)辺りから神津島の島影に入った。濡れた肌に冷たく感じる南西風が疲れた僕の身体から体力を消耗していくようだった。透明度の高い澄んだ蒼い海と、手先から感じる暖かい海水が、消耗した身体に元気を与えてくれるようだった。やはりVa'a には、暖かくて青い海がよく似合う。…と勝手に決めつけながら、元気を取り戻して漕ぎ始めた。

見上げるような天上山から連なる神津島の山々、石灰岩の白い岩肌が海際までとどく海岸線もあれば、溶岩がそのまま固まって岩になった火山島らしい鋭い岩肌も見えてきた。つねに潮の流れがきついようで、小さな岬や鼻をこえるたびに、浅瀬では波が逆立ち渦がまく。島の自然の荒々しさに驚きながらも、南西風が強まったのと、疲れた身体で不安を感じたのとで、なるべく神津島の沿岸近くを漕いだ。 



人気もなく、寂しい海岸線が続く。夏の海水浴シーズンは賑わうらしいアスレチックの木でできた桟橋が、風に寂しく揺れていた。時計を見るともう15時。すでに漕ぎ始めて6時間は経過していた。おおよそ予定通りだけど、思ってたよりも長い海の道のりのように感た。 神津島の地図や観光ガイドは、何度も確認し、どこに何があり、上陸予定の前浜が港の桟橋を超えたところにあるということなどの土地感覚は、パソコン上では知ってて理解しているつもりだったが、実際に海から漕いで近づくのとでは、距離感と時間の感覚が麻痺しているようで、大いに違って感じた。季節はずれの3月の海辺には人はまばらで、港は活気もなく、2,3人の釣り人が堤防から釣り糸を垂らしているだけだった。



南西風が結構吹いていたので、オンショアになる前浜への上陸は波が割れてるのではないかと少し心配になったが、風に軽く押されながら、石灰岩の純白の砂浜にスムーズに上陸できた。波打ち際は、クリームソーダではないかと思うような美しいエメラルドグリーンと白のコントラストだった。






出発から7時間半後、遂に神津島の前浜の砂を踏んだ。前浜の南西数キロ沖には、今回のボヤージングのもう一つの目的地でもあった恩馳島(おんばせじま) が見えた。西に傾いた春の太陽に横から照らされて岩肌が輝いて見えるほどだった。その輝きは、黒曜石じゃないかと思うほどにガラスが反射するように輝いて見えた。

恩馳島の黒曜石は、国内一、世界一と言われるほどの純度、硬度、輝きで、3万8,000年前の先人達も、神津島、それも、この恩馳島の黒曜石を求めたらしい。その時代は氷河期だったので、恩馳島とこの神津島は陸続きだったらしく、現在は、恩馳島の海底深くに、その黒曜石は眠っているそうだ。

恩馳島が見えるこの砂浜で、Va'a Moana と一緒に祈りを捧げた。森羅万象生きとし生けるもの、地球上の全ての存在に感謝をし、太古の先住民、海の先人達に感謝の祈りを捧げる。そして、この場所に導いてくれた大いなる力に感謝の気持ちを伝える。 



15時半に前浜に上陸し、その場で30分ほど祈りを捧げ、そこにいた地元の人に水道の場所を聞き、潮だらけになった身体を簡単に洗った。波打ち際からもっと砂浜の上の、立派な都会風のデッキの横にVa'a Moana を置かせてもらった。

 島は、東京都の島らしく、道路も整備され、自然豊かな環境に不似合いな立派な建物やモニュメントがあるのには、少しびっくりした。走る軽トラも品川ナンバーで、僕が住む南伊豆の方が、うんと田舎に感じた。上陸したこの場所は、島の西側に位置し、郵便局も役場もあり、神津島の中心地で、スーパー、お土産屋、民宿、居酒屋、パン屋に酒屋。コンビニなどはないが一通りのお店は何でも揃っている。


浜の近くにある、物忌奈命神社(モノイミナノミコト神社)にお参りに行った後、観光協会で民宿を予約してもらい、坂の上のパン屋でパンとビールを買い、坂を降って浜にもどり、Va'a Moana の隣で、独りで海に沈む格別な夕陽を拝んだ。 その夜は、坂の上の民宿に一晩お世話になった。夕飯は村の食堂で、ラーメンとチャーハンを食べた。民宿のお風呂が温泉じゃないのが残念だったが温泉に入るには、2キロほど歩く温泉センターに行くしかないということなので今回は断念した。 緊張を保ちながら翌朝を迎えた。



その日は午後から南風が強まる予報だったので、海が荒れる前の到着を目標とし、早めに舟出した。前浜には、4メートルほどの南西が吹いていた。後ろにそびえる高処山と秩父山の間から朝日が上がり、かろうじて前浜の波打ち際を朝日が照らしてくれた。



今日は、できるだけ、弓ヶ浜まで、直線の最短距離で行こうと心に決めて舟出した。昨日は、僕の中の弱い意志が、Va'a Moana を新島と式根島が見える、東に東に蛇行させてしまったのだ。今日これから目指すはHome! 家へ帰るのだ。昨日60キロ漕いだとは思えないほどに、僕の身体に疲れはなく、エネルギーに満ち溢れていた。



昨日飲み干したコーラの500ml一本を補充しただけで、食べ物も補給はせず、復路弓ヶ浜を目指して漕ぎ始めた。 南から暖かい空気が流れ込んでる気配で、視界は昨日よりも悪かった。水平線上に伊豆半島は見えなかったが、北東の天に富士の高嶺が見えた。綿雲のように白く輝く浅間さまに、パドルを止めて思わず柏手(かしわで)を打った。太古の海洋民族の心と一つになったなんともいえない気分だった。

 富士山の方向から少し左(西)よりを目指して漕ぎ続けた。どんどん神津島の沿岸が遠ざかっていった。少し後ろから押してくれる南風を期待したが、風は西風だった、またもやアマ側からの風だったけど、上げ潮だったようで、アマ側からの西風にも負けず、Va'a Moanaは頼もしく滑っていた。 『ひょうたん瀬』の三角波地帯を超えたあたりで、南伊豆の山並みが見えてきた。

ふと、海の真っただ中で感じるはずがない、何かの視線を感じて後ろを大きくふりむくと、ずっと後方の空の上から、大きな鳥が僕をめがけて低空で接近してきていた。羽翼の長さが2メートルもありそうな大きなカツオドリだった。鳥は接近して通り過ぎて、また帰って接近して、通り過ぎる。を繰り返した。そうするうちに今度は僕の少し上空を旋回しながら道先案内をするように、しばらくの間付き添ってくれた。思わず嬉しくなって「ありがとう!」と叫んだ。無心にて漕いでいるうちにいつの間にか時間が過ぎていった。




 前回の利島へのボヤージングの時にも話したが、この海域は、ひっきりなしに右から左、西から東、と大型貨物船やタンカーが通る航路になっている。神子元島の灯台を確認出来る距離まで来たところで、大型貨物船が、このまま行くとぶつかるなぁ…みたいな航路を通り東から接近してくるのが見えた。ギリギリ先に通れそうだったので、ピッチを上げ貨物船の前を横切ろうとしたところ、急に貨物船が僕の進む方向へ進路を変えた。どのくらいの距離だったろう。広すぎる海の上では、まったく距離感がないがおそらく400メートルとかそれ以下だったと思う。このままだとぶつかるなぁと思い。僕は漕ぐのを止めてとまった。壁のような大型貨物船が、静かに、それでも白波を立てて、僕とVa'a Moanaのすぐ目の前を通り過ぎて行った。僕はF。。。you! と何度も叫んだ(笑)。



そんなトラブルもあったけども、いつの間にか、神子元島がすぐそこに見える、海域まで来た。西風は相変わらず吹き続けてはいたけども、いつ来ても潮流が早くて荒れてる神子元島の付近は、いつも以上に静かに感じた。もしかしたら僕がこの海に慣れたのかもしれない。 もう、ここまで来れば、弓ヶ浜はすぐそこだ。10キロもない。見慣れた神子元島と灯台が、お疲れさま!と僕とVa'a Moana を迎えてくれたように感じた。



 あまりに予想以上に早く到着しそうなので、時間調整のつもりで、そこからはのんびりと漕いだ。トヨ根や横根や石取根、遠国島や蓑かけ岩、石廊崎や爪木崎、いつの間にか、兄弟のようにみじかに感じる見慣れた自然の造形物たちに声をかけながら、西の石廊神社のほうに向かって深々と頭を下げ、そして弥陀の窟の前まで漕ぎ、いつものように手を合わせた。



 弓ヶ浜の砂を踏んだのは13時少し前。ちょうど浜に出て来たというKuuipo (犬)とナミコが迎えてくれた。往路に比べて2時間も短い時間で神津島、弓ヶ浜間を航海したことになる。

潮流が良かったということこあるだろうが、「homeに帰りたい」という強い気持ちが、パドルとVa'a Moanaに伝わったんだとつくづく思った。 海を漕いで渡るには、知識や科学や技術ではなく、渡りたいという強い意志と、大いなる力を心から信じることが大切だと感じた。



うまく言葉では説明出来ないけども、外洋の海を漕げば漕ぐほど、陸の常識とはまったく違う、自然の摂理というか、海の真理というのか、自然のリズムが存在することに気付かされる。 だからこそ、4万年前、空気が限りなく澄んだこの地球上に生きた僕らの祖先、太古のネイティヴジャパニーズは、当然のようにこの日本という島に渡り定住し、黒曜石を求めて航海できていたのだろう。それは彼らにとっては、決して無謀でも危険でも不可能でも信じられないことでもなかったであろう。 

太古の地球に生きた人類。。。すべての生きものたちを兄弟と感じ、風の匂い、空の色、雲の色や形、海や気温の変化など、様々な自然の細やかなサインを読みとることができ、鳥や魚の群れの意志を知り、イルカやクジラと対話が出来る能力を持ったであろう彼らなら、大いなる力の導きと宇宙のタイミングに合わせて、今回の僕よりも安全で快適に、この海を漕いで渡ることが出来たのだろう。

そして、時空を超えて、その人達の魂は、今もこの南伊豆の海と大地に生き続けている。

 2日間で13時間、120キロのHoe Va'a ボヤージングだった。




 3月17日 (木) 南伊豆 弓ヶ浜⇨神津島 前浜 8時半発 15時半着 晴れ、北東の風6メートル、のち南西の風4メートル 小潮、月齢8

 3月18日(金) 神津島 前浜⇨ 南伊豆 弓ヶ浜 7時半発 13時着 晴れのち曇り、南西の風4メートル、のち西の風6メートル 小潮、月齢9

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